御祭神
武御名方神(たけみなかたのかみ)
主神武御名方神は、出雲の大国主神の御子で事代主神と兄弟神である。
天孫降臨以前、永く父を助けてこの国土を経営し、のち信濃国諏訪に移って開拓の功労著しく、神功皇后三韓征伐以来、航海守護の神として特別の崇敬を集め、坂上田村麻呂公東夷征討の際、関東一の軍神として軍旅に効があり、長野県諏訪市の官幣大社諏訪大社は、この祭神夫婦を祀る。
また、神名の示す通り水のそばにあって、水のこと一切を司る神として名高い。武勇、智略にもすぐれ、日本第一の軍神として武田信玄を始め武将の尊崇すこぶる厚かった。
近時は一般庶民の信仰も厚く、世上一般には国土安泰、農工商漁業の繁栄、船舶、交通の安全、医薬、開運の守護神として信仰を集めている。
世俗にいう龍神信仰とも共通のものがある。
猿田彦神(さるたひこのかみ)
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する。天孫降臨の際に、天照大御神に 遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。 天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。 当社では下堤町・松森町・吉田家にあった庚申塚をそれぞれ遷座した境内社として祀られている。
由緒
諏訪神社は、第66代一条天皇の御代の寛弘年中(1004~1012、平安時代中期)左近衛中将藤原実方朝臣の勧請により、もと造道村浪打の地に鎮座したのに始まる。
寛永8年(1631、江戸時代初め)青森開港に際し、藩命をうけた開港奉行森山彌七郎が、開港の守護神として堤川中洲に遷座申し上げた。爾来津軽歴代藩主をはじめ民衆の崇敬篤く、元禄年中まで青森五社の筆頭として崇められ、藩主たびたび参拝をしたという。7月27日は御魂祭と称して神輿を市中渡御していた。
明治5年3月、松森町、博労町、堤町、莨町、塩町、堤川橋から茶屋町まで及んだ大火により結構なる社殿を始め、風致ある境内、鏡の井、逆手の桜などと称する古井名樹も瞬間の火に烏有に帰した。その後現在の栄町の地に仮拝殿を建てて遷座し、明治40年には総欅流造の本殿を再建、大正10年には総檜入母屋造の豪壮な幣拝殿を再建した。
明治6年村社に列せられ、明治44年には神饌幣帛料供進社に指定され、次いで昭和4年11月郷社に列せられている。大東亜戦争末期、昭和20年7月28日青森大空襲により、本殿、幣殿、拝殿、神庫、宝物、什物などことごとくが戦火に帰した。
戦後の混沌とした世情の中で、昭和24年合浦公園にあった招魂堂(明治25年建立の払下げをうけ、まず拝殿を復興した。昭和47年12月には本殿を造営、参集殿は昭和52年10月新築落成。平成16年には御鎮座1000年の佳節を迎え、記念事業として7月脇殿を造営、9月幣殿を増築し、盛大に奉祝大祭が斎行された
大正時代に再建した幣拝殿
沿革
第66代一条天皇の寛弘年中、左近衛中将藤原実方朝臣は陸奥守に任じられ、北の果てに任地を得てみちのくを巡り歩き、その足跡は陸奥外ヶ浜を経て羽後象潟にいたっている。
当社は実にその際の勧請に関わるものである。中将実方卿が諏訪神社を勧請したことについて「古事談」「青森郷土資料」に「中将実方、京都の御殿において、或る些事より同僚と争衝を惹起せるとき同僚の冠をとり、それを投棄したり。そのことが計らずも天皇の目前に止まるところとなり、ついに退官となりて諸所に流浪し、其末南部方面に住居することとなり、而してこれを悔悟して敬神することになり、日頃崇敬する諏訪神社の祠を建て神霊を祀り奉る」と伝えられる。
また、広田神社縁起によると「主神 天照皇大神荒魂」「相殿奉祀 大国主命 事代主命」「配祀 藤原実方公」となっている。
同神社に配祀されている藤原実方公について「一条天皇の御宇、長徳年間、時の左近衛中将から陸奥守に任ぜられた藤原実方公が、蝦夷鎮護のため創めて外ヶ浜貝森村(現在の青森市青柳1丁目、古くは蜆貝)に夷之社を創建して、陸奥国長久の平安を御祈願された」とある。
藤原実方
これらを総合してみると、前述の如く実方公は外ヶ浜を経て陸前名取郡生出村に行ったとき(奥羽観跡聞老誌)諏訪神社も広田神社も勧請したのであろう。諏訪神社の主神武御名方神と、広田神社の祭神事代主神とは兄弟神であることを考えると、両者を実方公が勧請したのもうなずける。
また、武御名方神は航海安全、事代主神は漁業の神であるから、両者は青森開港にあたって最も関係ある神々である。
諏訪神社は初め横内組造道村字浪打、合浦公園の南方諏訪林の中に鎮座していたといわれている。寛永元年(1624)開港奉行森山彌七郎が青森を開港するにあたって、善知鳥村と蜆貝村との中間の土地を区画整理して青森町を建設し、移住民を遠く近江、越後、越前、若狭の諸国から仰いだ。弘前藩は青森港建設のため、移住民に特別な保護政策を施したため、領内で鰺ヶ沢以上の港に発展した。
そもそも青森開港の目的は、徳川幕府が江戸に開幕したことによる。政治経済の中心地は大阪から江戸に移り、弘前藩の町屋敷が江戸に造られ、藩士が常駐するようになった。そのため江戸藩邸への租米の輸送は、近距離にある青森港からとなったわけである。
開港するにあたって、御廻船の海上安全を祈願するため開港奉行森本彌七郎の発願で、寛永8年(1631)航海安全の神である諏訪神社を造道字浪打から堤川沿いの中洲(莨街から博労町にある)へ遷座し、五社の筆頭としたのである。それ以来7月27日は御魂祭と称して神輿を市中渡御していた。しかし、元禄16年(1703)如何なる事情があったのか廃止になり、青森鎮守神は毘沙門堂に、また明治には善知鳥神社になった。善知鳥神社神幸祭も昔は諏訪神社の境内に御旅所を設けて一泊したものである。
このように諏訪神社は五社の筆頭であったので、歴代の藩主を始め民衆の崇敬篤く、藩主たびたび参拝をしたという。
諏訪神社の参道は博労町からで、裏参道は莨町にあった。境内もまだ青森名勝の一つで、広くはなかったが整備され、鏡の井、逆手の桜があり、草花や藤、桜などが植えられ、社家楼上の眺望は特に良かった。季節には町内の文人墨客が一瓢をたずさえていって、花を楽しんでいった。
また諏訪神社を中心に青森町の盛り場であった。弘前街道は安方町から油川、岡町、新城、浪岡を経て行く道と、堤から筒井、高田、豆坂を通って浪岡に出る道とふたつあった。
豆坂の難所があったが、高田、大野、荒川の近郷の人々が多く青森へ来るので、堤川口は非常に混雑した。これらの近在の人を相手に博労町に大きな呉服店、酒屋、醤油屋、荒物屋、米屋があって、堤から博労町、米町は青森一の繁華街であった。博労町の入り口、即ち諏訪神社の表参道付近に魚市場があった。長内、小田、三円などの魚問屋があって、毎朝野内、蜆貝の漁師たちが新鮮な魚を水揚げする場所で、人も通れないほど賑やかな場所であった。
社司柿崎伯耆家は慶長坊といっていたが、神職のかたわら家塾を開いて、新町の安定寺とともに子弟の教育につとめ、地方の文教に貢献するところ多かった。
明治5年3月25日、松森町から出火した大火のため、残念ながら社殿その他建造物は全く灰燼に帰した。柿崎千守神主はかろうじて御神体を奉じ、僅かに船を以て海上に逃れることができた。この火災は松森町から火を発し、博労町、塩町、莨町、堤町、茶屋町の475戸を焼失した大火であった。そこで同社付近は人家密集していたので、火災の危険を考慮し、神職所有地である現在の栄町に仮社殿を建てて遷座した。明治40年には総欅流造の本殿を再建し、大正10年には総檜入母屋造の立派な幣殿、拝殿を再建した。
明治6年3月村社に列せられ、明治44年9月8日には神饌幣帛料供進社に指定、ついで昭和4年11月12日郷社に列せられている。
諏訪神社の例祭は古来7月26・27日である。この祭礼は昔から華麗な川燈籠と花火で涼味をさそい、参詣人が潮の如く宵の口から押し寄せるので、青森一の名物となっている。
氏子は堤川の西側、博労町、莨町、塩町、堤町、松森町(現在の青柳2丁目、堤町)、そして東側の港町(旧大坂町)の六ヶ町である。大坂町は地主の大坂金助の縁故、また明治22年塩町遊郭が全部移転した縁故で氏子となった。
本社に合祀された猿田彦神は、松森町並に堤町に古来より鎮座する猿田彦神を、明治41年8月官命により合併、配祀したものである。猿田彦神は国津神として崇敬され、またの名を庚申様、太田様、船魂神と称せられ、京都の官幣大社伏見稲荷大社には天鈿女神と共に祀られている。諏訪神社では古来右二柱の尊像を大人形にした什物を所蔵し、祭典にはこれを飾って一般の参拝者の観覧に供した。残念ながらこの大人形も戦災で鳥有に帰した。
大東亜戦争末期昭和20年7月28日の米空軍の青森大空襲で全市は灰燼になったとき、明治大正再建の諏訪神社の本殿、拝殿、神庫、宝物、什物などことごとくが戦火に帰した。
戦後の混沌とした世情の中で、柿崎義登宮司はじめ氏子崇敬者の努力により、昭和24年合浦公園にあった招魂堂(明治25年建立)の払い下げを受け移築、市内でも逸早く拝殿を復興した。
昭和44年柿崎義明宮司が就任するや、社殿及び境内整備を実現すべく、総代会組織が強化され、崇敬者組織である敬神会が発足された。大勢の氏子崇敬者の奉賛により、昭和47年12月には念願の本殿を造営、参集殿で昭和52年10月新築落成したものである。平成16年には御鎮座一千年の佳節を迎え、記念事業として社殿整備が計画され、7月脇殿を新築、9月幣殿を増築して盛大に御鎮座一千年奉祝大会が斎行された。